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名古屋地方裁判所 昭和62年(行ウ)1号 判決 1989年9月08日

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用及び参加によって生じた費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が、原告及び被告補助参加人間の愛労委昭和五八年(不)第三号、同六〇年(不)第一号併合不当労働行為救済申立事件について昭和六一年一二月一二日付けでした命令を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  被告は、被告補助参加人(以下「補助参加人」という。)を申立人、原告を被申立人とする愛労委昭和五八年(不)第三号、同六〇年(不)第一号併合不当労働行為救済申立事件(以下「本件救済申立事件」という。)について、昭和六一年一二月一二日付けで別紙命令書(写)のとおりの救済命令(以下「本件命令」という。)を発し、右命令は、同年一二月一五日、原告に交付された。

2  本件命令は、事実誤認及び判断の誤謬により法律の適用を誤った違法な命令であるから、取消を免れないものである。

3  よって、本件命令の取消を求める。

二  請求原因に対する認否

請求原因1を認め、同2、3を争う。

三  抗弁

本件命令の理由は別紙命令書(写)理由欄記載のとおりであるところ、被告のした事実認定及び判断に誤りはなく、本件命令に違法はない。

四  抗弁に対する認否

(別紙命令書(写)理由欄中「第1認定した事実」に関する認否)

1  2(過去の労使関係等)の(2)の事実のうち、昭和四五年八月山田俊郎社長らが料亭に補助参加人を呼び出し、「今後、組合活動を続けていくのか、技術者として自己の職務に専念した方がいいのではないか。」などと述べて支部組合から脱退するよう働きかけたことを否認する。

2  同(2)の事実のうち、昭和四五年一二月原告が補助参加人を技術部から研究開発室に配置転換するに当たって担当すべき具体的業務を与えず、同人は一人で研究開発室に在室していたことを否認する。補助参加人に業務指示、業務命令を与えないまま放置することは会社の経営体制からいってありえないことである。なお、研究開発室は、補助参加人の外に二人が担当している三人の組織である。

3  同(2)の事実のうち、昭和四六年九月、原告の役員らが補助参加人を役員室に呼び出し、会社にいても役に立たない無能力者だから、会社を辞めたらどうだ、賃上げをしない、むしろ賃下げを断行する、会社における将来は保証できない旨述べたとの点を否認する。原告の役員らは、補助参加人が上司の職務命令に従わず、絶えず口論を吹きかけ、上司の職務遂行を妨げていたので注意を促したものである。

4  同(4)の事実のうち、補助参加人が、実験を重ね、試作品のサンプルを付し、二回中間報告をしたが、原告は何の応答もしなかったとの点及び昭和四九年春これ以上研究を継続しても開発は不可能である旨の最終報告書を補助参加人が提出したところ、原告は即座に研究の中止を決定したとの点をいずれも否認する。補助参加人は研究結果の報告をしていない。

5  3(翻訳業務)の(1)の事実のうち、原告が、アディティブプロセスの研究を中止した後、補助参加人に仕事の指示を全くしなかったとの点及び補助参加人が勤務時間中に部屋から出て上司である野田稔製造部長(以下「野田部長」という。)に新規の技術文献を要求すると、原告は、無断の職場離脱であるとして補助参加人の賃金を減額したとの点をいずれも否認する。原告は補助参加人に対し、仕事は必ず与えていたが、補助参加人が業務命令に服さないだけである。また、補助参加人が進んで仕事を求めたことは一度もなく、野田部長のもとには、同人にできない翻訳文の添削を強要するために行っただけである。補助参加人が賃金を減額されたのは、他の職場に用もなく行き、口論し、仕事を妨げたことが理由である。

6  同(2)の事実のうち、補助参加人が考課の結果について説明を求めても野田部長らは応じなかったとの点を否認する。考課結果については、補助参加人が下書きを清書せず、上司の命令に背くから考課が悪い旨説明している。

五  原告の主張

(不当労働行為の不成立)

不当労働行為が成立するためには、組合活動と不利益取扱との間に因果関係が存すること及び不利益取扱をするについて労働者の組合活動の故にするという使用者の認識(不当労働行為意思)が存することを必要とするところ、補助参加人は、後記のとおり本件考課査定期間中支部組合の中核的存在であったとはいえず、かつ、原告は補助参加人が支部組合の中核的存在であるとの認識を有していなかったのであり、また、原告は支部組合を嫌悪すべき理由もなく、現に嫌悪していない。さらに、右期間中の補助参加人の勤務成績は劣悪であって本件考課査定は合理的なものである。

したがって、本件考課査定が低かったのは、補助参加人の勤務成績に起因するものであり、原告は、補助参加人が労働組合の組合員であることあるいは労働組合の正当な行為をしたことの故をもって不利益な取扱をしてはおらず、前述の因果関係及び不当労働行為意思のいずれの要件をも欠くものであるから、不当労働行為は成立しない。

1 補助参加人の支部組合における地位

(一) 補助参加人の所属する総評全国金属労働組合愛知地方本部日本サーキット支部(以下「支部組合」という。)の組合員は昭和五四年ころには僅か六名となり、そのため同組合の組合員は殆ど役員となっているのであり、補助参加人が役員であったとしても、同人が支部組合において重要な地位を占め、中核的存在であったことを意味しない。

(二) 本件考課査定の対象期間は、昭和五七年度(昭和五六年三月二一日から昭和五七年三月二〇日まで)及び昭和五九年度(昭和五八年三月二一日から昭和五九年三月三一日まで)であるところ(以下の期間を「本件考課査定期間」という。)、補助参加人は、昭和五五年七月四日から昭和五七年一一月一〇日までに開かれた五回の団体交渉及び一回の事務折衝のうち、右期間中支部組合副委員長であったのに、一回団体交渉に出席したのみであり、その際も全く発言がなく、また、昭和五八年四月七日から昭和五九年三月二九日までの間に四回開かれた団体交渉にはいずれも出席したが、右期間中支部組合書記長であったのに全く発言しなかった。

(三) 更に、本件考課査定期間において、補助参加人は、支部組合と意見が合わずに孤立し、却って、支部組合の中核的存在とは対立していた。

2 本件考課査定の合理性

(一) 本件考課査定は、補助参加人の上司の職務命令に従わない劣悪な勤務成績に起因するものであり、合理性を有する。

(二) 本件命令は、補助参加人が社長らを犯罪者呼ばわりし、上司を侮辱する表現をしたのは、本件考課査定期間中でないから、補助参加人の考課が最低である理由とはならない旨判断しているが、被告は、本件考課査定期間外の過去における組合活動をもって補助参加人を支部組合の中核的存在であると認定するなど、考課の対象期間を意に介せず原告の不当労働行為を認定しているのであり、判断過程に矛盾がある。

(三) いわゆる先端産業を業務内容とする原告においては、日進月歩の発展を遂げる業界の現状から内外から正確に知識を収集する必要があり、このためには外国文献の翻訳業務が欠くことのできないものである。したがって、佐藤専務、守田常務(いずれも当時)らは、自ら外国文献の翻訳による調査研究を手がけてきたが、これらの労を幾分でも軽減するために補助参加人に翻訳を命じたものである。なお、補助参加人は、現在、佐藤専務の下で、翻訳業務に専念し、通常の勤務成績をあげている。

3 不当労働行為意思の不存在

支部組合の組合員は六名であるが、補助参加人以外の支部組合員は全員、サーキット労働組合及び非組合員のそれぞれの平均以上の考課査定を受けているのであり、原告は支部組合を嫌悪していないし、支部組合員であることを理由に不利益取扱をする意思がないことは明らかである。

六  補助参加人の主張

1  初めに

(一) 本件事件の経過の概略は以下のとおりである。補助参加人は昭和四一年一一月、大学院で研究中に教官の紹介で原告に入社した(補助参加人はそれまで学生運動、政治運動に関わった経験は全くなかった。)。当時原告は従業員一〇〇名前後の小企業で、大学卒業経歴者もほんの数える程度であった。

補助参加人は入社後間もなく、先進企業視察のため派遣された訪米団の一員にも加えられるなど、将来を嘱望される存在であった。補助参加人は、社内でも若い従業員からも信望を集め、昭和四五年五月には、当時、部課長も加入していた従業員組合の委員長に選ばれることになった。その後、原告による新賃金体系導入を契機として、従業員組合の中に真の労働組合結成への機運が現実化し、右従業員組合は同年七月、支部組合へと組織替えを遂げ、補助参加人はその初代委員長となった。

と同時に原告の支部組合及び補助参加人への風当たりは一変した。原告は、総力をあげて第二組合作りに狂奔するとともに、社長、副社長らが右労働組合の中心的存在たる補助参加人を呼び出して「将来技術者としてやっていくのか、労働組合活動を続けるのか。活動をやめた方が君のためになる。」と懐柔し、これが奏功しないと判断するや、喝に転じ、以後、実質的な降格、賃金カット、年末一時金の不払い、孤立化のための相次ぐ配転等考えられる限りの支配介入、差別を繰り返し、挙句の果てに、昭和四九年以降補助参加人を大部屋に一人隔離し、殆ど仕事を与えず無為を強制するという暴挙に出、この状態が一四年近くを経た現在に至るまでほぼ一貫して継続しているのである。

(二) これら原告による支配介入及び差別の繰り返しに対して労働者側は一〇件を越える救済申立をなし、悉くといって良いくらいに労働者側の主張を是認する内容の救済命令が発令され、もしくは同内容の和解が成立している。

本件救済命令の対象となった考課差別も右のような長年にわたって継続する原告による労働組合活動への支配介入、差別の一環をなすものであり、本件救済命令はこれを労組法七条一号の不利益取扱であると判断したものであって、適法であることは明らかである。

2  抗弁に対する認否(前記四)及び原告の主張(前記五)に対する反論

原告は、本件救済命令には事実誤認及び判断の誤りがあり違法であると主張している。しかしいずれも理由がない。以下その理由を述べる。

(一) 昭和四五年八月山田俊郎社長らが補助参加人を料亭に呼び出し、同人に対して支部組合脱退を働きかけた事実はない、との点(前記四の1)について

昭和四五年八月一日夕方、補助参加人は総務課より電話を受け、恩師の屋代教授と会うよう求められた。場所は料亭「中菊」であり、右教授の他に、当時の山田社長、野崎副社長が同席し、補助参加人に対して組合活動をやめるよう説得したのは紛れもない事実である。

右社長らが恩師の同席のもとで支部組合委員長である補助参加人を呼び出したのは右のような説得以外にどういう目的があったというのであろうか。時期的に見て、支部組合結成(同年七月六日)の直後であり、原告が第二組合結成に向けて同志グループを支援し始めるころのことであり、宴席の目的は明白であろう。また、原告には当時屋代教授の教え子としては他にも表力が在籍していた(卒業論文の指導を受けている)のに、宴席に呼ばれたのは補助参加人だけであったことから見ても、屋代教授はたまたま来社したのではなく原告が補助参加人対策のためわざわざ来社を求めたのである。

(二) 研究開発室へ配転してから補助参加人に対して、具体的業務指示、命令を与えないまま放置することはない、との点(前同2)及び昭和四六年九月一八日社長らが補助参加人に対し、無能力者呼ばわりして退社を働きかけたことはない、との点(前同3)について

(1) これら事実があったのは、昭和四五年一二月から昭和四六年九月にかけてのことである。この時期は、第二組合が結成された(昭和四五年一〇月一七日)直後約一年間にあたる。当時、支部組合は原告及びその意向・支援を受けた第二組合により切り崩し工作を受けており、両組合がしのぎを削っていた。会社としては、支部組合の幹部、とりわけ委員長職にあった補助参加人の従業員への影響力を排除したいと考えていたことは明らかであり、そのために補助参加人を隔離された職場に閉じ込めようとして研究開発室に配転したのである。この配転を、それ以前の横浜国立大学への出向命令、その後の総務部設備課保守係への配転、アディティブプロセス開発の指示、翻訳作業の指示又は無為の強制という一連の経過の中で見れば、その本質が補助参加人の隔離、孤立化にあることが判明する。研究開発室は、守田室長、補助参加人及び平林(女子従業員)の三名で構成されていたが、守田(営業部長兼務)は部屋に来たことがなく、補助参加人は彼に会ったこともなく、平林も殆ど生産技術課へ出向いており、実際に部屋にいたのは補助参加人のみであった。補助参加人は研究開発室では何らの仕事も与えられていなかったのであり、従って原告が補助参加人に業務内容の説明をしたり、仕事上の指示をしたなどということはありえない。することのない補助参加人は山田社長に対して、補助参加人に仕事を与えるよう要求するも、同社長はただ「もうかる仕事でも考えておれ。」と言うのみであった。

(2) 昭和四六年九月一八日、補助参加人は社長室へ呼び出され、当時の山田社長、野崎副社長、加藤正一専務より「仕事をしないし、無能力者だから退社せよ。」と迫られた。これに対しては支部組合が抗議行動及び被告にあっせん申立をしており、右退職強要が補助参加人個人の問題としてではなく、支部組合への支配介入(弱体化)の一環としてなされたものであることが理解しうる。入社後五年にならない補助参加人一人に対して原告の社長以下幹部三名が直々に退職を迫ったのは、補助参加人が支部組合の活動の中核的存在だからこそである。

(三) <1>原告は、アディティブプロセスの研究を中止した後、補助参加人に仕事の指示を全くしなかったということはない、<2>補助参加人が野田部長に新規の技術文献を要求すると、原告は無断の職場離脱であるとして補助参加人の賃金を減額した事実はない、との点(前同5)について

(1) まず<1>について反論する。

ア 補助参加人が野田部長に対し、アディティブプロセスの研究開発はこれ以上継続しても不可能である旨最終報告したのに対し、原告側からは何の問い合わせもなく、補助参加人の方からの問い合わせに対して、ただ「出来ないんならしょうがない。」との返事があったのみで(昭和四九年春ころ)、それ以降同年夏に突然英語文献の翻訳を指示されるまでの間、何の仕事も与えられなかったのである。

イ 翻って考えるに、原告には補助参加人に対し、まともに仕事をさせる気がなかったことが明らかと言わざるを得ない。支部組合結成、補助参加人の委員長就任の以前には補助参加人は技術部(部員約一〇名程度)に所属し、他の従業員とともに正常な業務を与えられていたのに、右以降は一転して、一貫して他の従業員からひとり隔離されるに至ったのである。つまり、原告は組合員から圧倒的信頼を得ていた補助参加人の支部組合への影響力を排除することが組合潰しの要めになると判断し、補助参加人と他の従業員との接触を物理的に断ち、補助参加人を精神的にも追い込むことにより組合活動から排除しよう(更には退職させよう)と狙っていたのである。この間の横浜国大への出向、総務部設備課保守係への配転、アディティブプロセス開発の指示、翻訳作業の命令に一貫して共通しているのは、「隔離された職場における一人作業」の強要ということである。

そして、右のいずれの業務も、原告にとってはいわば「どうでもよい」、結果を期待していない類のものなのである。原告はただ、支部組合から補助参加人に対して仕事を与えるよう要求されるため、いわば無為の強要を隠ぺいするためのアリバイとして仕事を与えているかの外形を作ろうとしていただけなのである。

アディティブプロセスに関する最終報告の後、何の仕事も与えなかったことは右の事情からみれば原告にとってみれば自然の成り行きであったのである。

(2) 次に<2>について反論する。

補助参加人は翻訳用の文献が与えられず、無為を強制されていたため、野田部長に対し、しばしば口頭もしくは文書でこれを与えるよう催促していた。しかし同人はこれに答えず、ために補助参加人は止むを得ず野田部長の部屋へ出かけて行くことになった。すると無断職場離脱だとして賃金カットを受けた。

(四) 昭和五七年夏ころから野田部長に添削を求めても応じなかった、野田部長に考課結果の説明を求めても応じないということはない、考課結果については補助参加人が清書せず、上司の命令に背くから考課が悪い旨説明している、との点(前同6)について

(1) 補助参加人は、最初のころは、まず翻訳文の下書きを原文献とともに上司の野田部長に提出して翻訳の不備、誤りの指摘を求め、上司の承認の後に清書に移るという順序で作業をしていた。下書きの提出に対し野田部長からは訂正等の指示や添削はなく、検印が押されて下書きが戻ってくるのでひき続き清書をし、補助参加人としては自分の翻訳が正当に評価されていると思っていた。ところが、考課査定が社内最低とされていることが後に判明した。補助参加人の当時の仕事は翻訳のみであったから、右査定の結果の理由としては翻訳の不出来を措いて他には考えられず、そこで、補助参加人は清書の前に添削をするよう野田部長に要求したのである。ところがいつもナシのつぶてで添削も承認もないままであったので清書に至らず、新たな文献の翻訳の指示がなされるという状態が続いた。

もし、社内最低の考課査定にした理由が清書の指示に従わないことにあると言うのであれば、それは偽りである。何故ならば、清書に応じていた当初のころの査定も社内最低であったからである。清書に応ずる、応じないにかかわらず一貫して補助参加人に対する考課査定は社内最低であったのであり、その理由は補助参加人の昭和四五年以来の労働組合活動歴を嫌悪したが故としか考えようがない。事実、野田部長自身も「翻訳の出来がいくら良くても査定は社内最低にしてやる。」「査定は、翻訳の出来不出来を見ていない総務課がやっている。」等と述べていた。

(2) 以上の経過からすれば、補助参加人が添削を求めるのは無理からぬことと言わざるを得ない。しかるに野田部長らはこれを無視したのである。また野田部長らとしては翻訳の出来が良いのに何故補助参加人の考課査定が社内最低なのかについて真面目に応答すべきであったのに、これをしなかったのである。

(五) 補助参加人は、支部組合の中核的存在と対立関係にあったことが明白である、との主張(前記五の1)について

従来の被告への不当労働行為救済申立は支部組合が申立人となって行っていたのに、本件及び前件は補助参加人個人が申立人となっていることはたしかである。しかし、支部組合としても、支部組合が申立人となって補助参加人の賃金差別等に対する救済申立を行なうのが本来であることは判っているものの、支部組合は、多数の地労委、裁判所事件を抱え、その対応のために多大の労力を費やしてきており、他方この間支部組合員の人数も少なくなり、更に右申立を支部組合として行うだけの力量がなかったので止むを得ず、補助参加人個人の資格において申し立てたものである。補助参加人に対する差別が不当労働行為に当たるとの認識において支部組合、補助参加人間に見解の違いはなく、補助参加人個人が申し立てること自体に支部組合員の間に反対はない。

(六) 原告が支部組合を嫌悪している事実はない、支部組合員は六名であるのに、その考課率は第二組合の組合員、非組合員等の平均を下らない、特に補助参加人を除けば平均以上になっている、これをみても、原告が支部組合を嫌悪し、差別していないことは明らかである、との主張(前同3)について

(1) 右の主張は、今日では「寺沼問題」、すなわち補助参加人の職場処遇及び同人に対する賃金差別が支部組合に対する不当労働行為の中核をなしているという原告の攻撃の特質を忘却した議論である。すなわち、原告の差別攻撃の対象が、支部組合結成当初の時期にみられたような支部組合員全体に対するものから、次第に中核的存在たる人物に絞られて来たという特徴的経過である。

そして、賃金差別についてみても右の経過に沿う形で、対象が全組合員から次第に中核的存在へと絞られてきているのである。そして今日では補助参加人一人に対する差別の形で集中的に行われているのである。原告が「寺沼を除けば(支部組合員の考課率は)第二組合員、非組合員の平均以上になっている。」と主張する現実も、この補助参加人に対する集中的差別の裏返しの現象なのである。

係属中の訴訟事件二件に先行した訴訟事件の和解において、労使紛争の相当部分につき合意をみたが、補助参加人の処遇が懸案として残り「利害関係人寺沼一雄組合員の職務内容については、正常化のため、今後とも労使双方が誠意をもって協議する。」(六項)とされており、現在では「寺沼問題」こそが労使間の最大課題となっている。このことが補助参加人への集中的差別として象徴的に現われている。

以下、この間の経過について敷衍する。

(2) 原告は、支部組合の存在そのものを嫌悪したが故にかつては支部組合員全体に対して不当労働行為をした。賃金差別に限っていうと、支部組合結成直後の昭和四五年一二月賃上げ時からはじまり、昭和四六年以降もつづき昭和四九年、五〇年まで続いた。これに対し支部組合は被告に救済申立をなし、全面勝利の命令を得、もしくは和解が成立した(愛労委昭和四七年(不)第一四号、愛労委昭和五〇年(不)第七号、同五一年(不)第一〇号)。原告は、このように支部組合員全員に対して差別攻撃をすることがかえって組合員の団結を強めてしまい労務対策上得策でなく、また不当労働行為性を認定され易いとの判断から、方針を変更し、組合員を分断、差別することにした。

(3) そこで、支部組合の中からとりわけ中核的存在として組合活動をリードしてきた補助参加人と原憲司(以下「原」という。)の二名に絞って差別攻撃をかけはじめた。支部組合結成当時の委員長は補助参加人、副委員長が原である。原告の支配介入による第二組合の結成という分裂工作が激しかった昭和四五年後半当時の支部組合作成のビラの殆どは右両名の連名で出されている。補助参加人、原の両名に対する賃金差別は昭和五四年までの考課査定結果が如実に示している。すなわち、昭和五四年を例にとり、原告の作成した考課点と考課率の比較表をみると、わざわざ「寺沼・原をのぞく」平均点欄が設けられているのである。原告は、右両名だけが常に成績不良者だと主張するつもりであろうが、それを裏返すと、両名だけを特に差別扱いしてきたことを表わしている。

(4) さらに、このような分断でも支部組合の団結を崩せないとみるや、原告は、昭和五五年以降においては補助参加人一人に狙いを絞って集中的に攻撃をするに至った。これと符節を合わせて、それまでの「寺沼・原をのぞく」平均点欄は「寺沼をのぞく」平均点欄へと表現が変えられるに至った。

(5) なお、補助参加人の考課を原よりも更に低く査定するという新たな差別に出たのは昭和五五年四月三〇日に支給された昇給賃金からであるが、ここで留意されるべきは、補助参加人が愛労委昭和五五年(不)第三号事件の申立をした日が同月二六日であったという事実である。通常、事件を受理した地労委は申立のあった旨をその翌日には相手方に通知する取扱いである。従って、昭和五五年四月の賃金支給日(同月三〇日)の直前に右救済申立を知った原告は、救済申立を理由に補助参加人の考課を原よりも更に低く査定するという差別をしたと言わざるを得ない。

(6) 以上に述べたとおり、平均点を恣意的基準で計算して形式的に論ずる原告の主張は失当である。

(七) 一方で「会社に提出する文書に社長らを犯罪者呼ばわりしたり、上司を侮辱する表現を用いたりしたのは、いずれも本件考課の対象期間ではない」としながら、他方で、考課対象期間外の過去における組合活動を目して補助参加人が中核的存在だと認定しており、考課対象期間の内外の判断につき矛盾がある、との主張(前同2の(二))について

(1) まず、ある賃金差別が不当労働行為に該当するか否かを判断する場合に、その差別が当該考課査定期間中のではなく、それ以前の時期における労働者の労働組合活動の故をもって差別されたものであっても不当労働行為性を肯定するに一向差支えないことはいうまでもない。本件の場合、本件救済命令は、当該考課査定期間内及びそれ以前の約一三年間にわたる一連の組合活動の故の差別であるとの判断をしているのであり、右に述べたところから見て、この点に何ら違法はない。

(2) 次に、本件命令が、犯罪者呼ばわりや侮辱表現は考課査定対象期間外のことであるとして原告の主張を排斥した点も何ら問題はない。原告自身が、「本件考課査定対象期間内に右犯罪者呼ばわりや侮辱的表現があった、そしてそれを理由に低い査定をした。」と主張したので、本件命令はこれら行為は右対象期間以前のことであり、原告の主張は事実に相違しているとして斥けたのである。

従って本件命令に主張のような矛盾はない。命令に矛盾があるとする原告の主張が正当性をもちうるのは、考課査定期間外の勤務状況をも査定上考慮しうるのだという非常識な立場に立ってのことである。

3  以上のとおり、原告の行った本件不利益取扱い(賃金差別)は合理的根拠がなく、補助参加人が支部組合の中核的存在として活動してきたことを嫌悪して行ったものであり、労組法七条一号に該当する。従って本件救済命令に違法な点はない。

第三  証拠<省略>

理由

一  請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二  本件命令の基礎となった事実関係について

被告は、前記一のとおり、本件命令において、原告が補助参加人を異常な職場環境においたこと及び補助参加人の昭和五七年度の賃上げ及び夏季・年末各一時金における各考課査定並びに昭和五九年度の賃上げにおける考課査定が不合理であることを認定したうえ、これらを労働組合法七条一号に所定の不利益取扱に該当するものと判断して、別紙命令書(写)主文欄記載のとおりの命令を発したものである。そこで、まず、本件命令の基礎となった事実関係について検討することとする。

なお、以下において、補助参加人の証言、当庁昭和五八年(行ウ)第八号不当労働行為救済命令取消請求事件(以下「別件訴訟」という。)における補助参加人の尋問調書(<証拠>)、本件救済申立事件の審問調書中補助参加人の証言記載部分(<証拠>)及び愛労委昭和五五年(不)第三号不当労働行為救済申立事件の審問調書中補助参加人の証言記載部分(<証拠>)を「補助参加人の供述」、証人山本和弘の証言、別件訴訟における同人の証言調書(<証拠>)及び本件救済申立事件の審問調書中同人の証言記載部分(<証拠>)を「山本の供述」、本件救済申立事件の審問調書中守田昭二の証言記載部分(<証拠>)を「守田の供述」、本件救済申立事件の審問調書中田中朽の証言記載部分(<証拠>)を「田中の供述」とそれぞれ一括していうことがある。

<証拠>を総合すれば次の事実を認定することができ、山本及び守田の各供述のうちこの認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

1  当事者

原告は、電気機材用プリント配線基板の製造販売を営む株式会社であり、その従業員数は原告が入社した昭和四一年ころは約五〇人程度であったものが支部組合の結成された昭和四五年ころは約一三〇人、昭和六一年ころは約四一〇人と増加し、また、昭和四六年には台湾において台豊サーキット、昭和五五年にはマレーシアにおいてマレーシアサーキットなど関連会社を設立して海外にも進出するなど、発展を遂げてきた。

補助参加人は、名古屋工業大学大学院在学中の昭和四一年一一月に右大学院在籍のまま研修社員として原告の従業員となり、昭和四四年三月まで右大学院に出向という形で研究を続け、同月から原告に出社して技術部に所属し、研究スタッフとして実際に勤務を始め、昭和四五年七月六日支部組合結成と同時にその執行委員長に選出され、以後支部組合の書記長、副委員長、会計、会計監査等の役職を歴任した。

2  支部組合結成の経緯

原告には従前より部課長等管理職も含めた従業員による親睦団体的な従業員組合が存在したが、これに対しては管理職が加入しない労働組合の結成の動きがあった。補助参加人は、昭和四五年五月二五日従業員組合執行委員長に選出され、前執行部からの引継ぎもあって労働組合結成の準備を進めていたところ、同年六月の従業員組合と原告との間の賃上げ、夏季一時金についての団体交渉の席上、原告から一方的に職能給の新設等を柱とした新賃金体系導入の通告があったことから、これに反発した従業員の間で一気に労働組合結成の気運が盛り上がり、同年七月六日、約一〇〇人余りの従業員によって支部組合が結成され、補助参加人が初代の執行委員長に選出された。

支部組合が結成されるや、上部団体である総評全国金属労働組合(以下「全金」という。)のオルグの指導の下に補助参加人らを中心とした支部組合が原告と団体交渉をした結果、同月一一日、新賃金体系の撤回等を内容とする協定が締結され、原告は、いったんは導入実施した新賃金体系を撤回することを余儀なくされた。

3  支部組合に対する攻撃

原告は、支部組合結成後、係長や班長などの職制を通じて組合員に対し、支部組合及び上部団体の全金の非難をするなど切り崩し工作を始めたが、昭和四五年八月一日、原告の山田社長及び野崎副社長は、補助参加人の大学時代の恩師を伴って補助参加人を料亭に呼び出し、補助参加人に対し、これからも組合活動を続けていくのか、技術者として仕事に専念した方が同人のためではないかなどと申し向けて支部組合からの脱退を働きかけたが、補助参加人はこれを断った。

また、支部組合員のうちも組合結成後間もなく支部組合及び全金の活動方針に不満を抱き、これに対し批判的な立場をとる者も現われ、ことに執行委員(これは従業員組合時代の執行委員がそのまま支部組合の執行委員として選出されている。)の谷口佳次らを中心とする同志グループは、全金からの脱退を主張し、支部組合員に対して全金からの脱退を決議するための臨時支部大会の開催を呼びかけて署名活動を行った。そのため、同月二九日、臨時支部大会が開催されたが、全金から脱退することについては反対多数で否決され、その後、同志グループに属していた谷口支部組合執行委員ら数名が支部組合を脱退し、他の支部組合員に対し支部組合からの脱退を呼びかける運動を積極的に展開した。

原告は、同志グループの右活動に対し職制を通じて積極的にこれを支援し、同志グループの構成員が勤務時間中に支部組合からの脱退を勧誘することを黙認し、同志グループのビラ作りにも協力し、とりわけ、原告の加藤正一専務(後の社長)は自ら知合いの印刷会社に同志グループのビラ等の印刷を依頼した。

支部組合において、同年一〇月一七日、臨時支部大会が開催されたが、そこで、同志グループに属する支部組合員から執行委員の不信任案についての緊急動議が提出され、これが反対多数で否決されると、それまで支部に残っていた同志グループ構成員も支部組合を脱退し、同日、同志グループを中心とした原告従業員らによりサーキット労組が結成され、谷口佳次が執行委員長に選出された。なお、サーキット労組の結成に際しては電気労連傘下の高岳製作所労働組合執行委員長の指導を受けているが、これは原告の加藤専務の紹介によるものであった。

サーキット労組は、その後支部組合からの多数の脱退者が加入し、同年一二月下旬までに六〇人ないし七〇人の支部組合員が脱退してサーキット労組に加入した。

支部組合は、同年一一月一〇日、原告のそれまでの一連の行為について不当労働行為であるとして被告に対し救済申立をした。

4  原告の補助参加人に対する取扱及び職場環境の変遷

(一)  補助参加人は、前述のとおり原告入社後も大学院において研究を続け、昭和四四年三月から原告の本社工場で勤務することとなり、技術部に配属された。当時の技術部は、製品の品質管理、検査、工程の技術上の管理、改良、新技術の検討、導入等を担当しており、補助参加人は、メッキ工程の自動化に関与し、また、昭和四五年二月ころにはプリント配線基板製造に関するアメリカ調査団の五名の団員の一人にも選ばれ、アメリカに派遣され、同年六月の賃上げ時には同期同学歴の者より昇給において優遇されていた。

(二)  ところが、支部組合結成後の同年一一月下旬、補助参加人は山田社長から突然口頭でメッキ関係の研究のため横浜国立大学へ出向するよう命じられた。補助参加人及び支部組合は、右出向命令は補助参加人を隔離して支部組合の弱体化を図るものと判断してこれを拒否した。原告は、右出向命令にあたり補助参加人に対しメッキ関係の研究という以上に具体的に研究テーマを提示することもなく、また、他にも適任者である表力がいたのにもかかわらず補助参加人に拒否された以降代わりの従業員に対し横浜国立大学への出向を命ずることはしなかった(このことから、当時原告にとって従業員を横浜国立大学へ出向させて研究をさせる必要性はさほど高くはなかったことが窺える。)。

(三)  原告は、同年一二月、技術部を生産技術課と研究開発室に分離する機構改革を行い、同月七日、補助参加人を研究開発室に配置転換したが、他の技術部員は生産技術課に配属され、研究開発室に配属されたのは補助参加人と生産技術課と兼務する女子事務員一名のみであり、また、研究開発室長は守田昭二営業部長が兼任した。守田研究開発室長は、就任以来一度も研究開発室に出入りすることはなく、女子事務員も生産技術課に常駐していたため、補助参加人は技術部が使用していた大部屋の一隅をスクリーンで仕切った約三・三平方メートルの場所に一人で隔離されたうえ、全く仕事の指示を与えられない状態が続いた。補助参加人は再三原告に対し仕事を与えるよう要求したが、原告は、昭和四六年六月一日、山田社長が補助参加人に対し何か儲かる商売でも考えるよう指示した他は補助参加人の右要求を無視し、同月ころ、補助参加人にそれまで支給していた資格手当八〇〇〇円を五〇〇〇円に減額し、同年七月支給の夏季一時金を従業員平均約二か月のところ、〇・二か月しか支給しなかった。また、同年九月一八日、山田社長、野崎副社長及び加藤専務は補助参加人を役員室に呼び出して、「会社にいても役に立たない無能力者だから、会社を辞めたらどうか。賃上げをしない。むしろ賃下げを断行する。会社における将来は保証できない。」などと述べ、退職するよう働きかけ、さらに、同年一〇月には資格手当五〇〇〇円を支給しなくなり、同年一二月支給の年末一時金(従業員平均約二・五か月)を支給しなかった。

(四)  原告は、同年一〇月一六日到達の内容証明郵便で補助参加人に対し、新設の総務部設備課保守係への配転のうえ、公害施設の維持管理及び水質管理等の業務(以下「公害防止業務」という。)の担当を命じた。これは、それまで公害防止業務を担当していた近藤長久が退職の申入れをしたため、その後任者として補助参加人を充てたものである。これに対し、補助参加人は、それまで公害防止業務は製造部長の所管でありこれを担当していた近藤は製造部生産技術課所属であったのに、十分な説明もなく公害防止とは無縁と思われる総務部長の所管に移したうえ保守係を新設して公害防止業務の経験のない補助参加人を配転するのは不自然であること、公害防止業務はその大半を屋外の施設で一人で行うものであることなどから、右配転もそれまでと同様に補助参加人の孤立化を図るものと判断してこれを拒否するとともに、支部組合もこの問題に関し原告に対し団体交渉を申し入れたが拒否されたため、支部組合は、同年一一月一九日、右団体交渉拒否は不当労働行為であるとして被告に対し救済申立をした。

なお、補助参加人が右保守係への配転命令に応じなかったため、原告は、公害防止業務をいずれも製造部生産技術課ないし技術グループに所属する他の従業員に担当させており、新設の右保守係へ配転することはなく、結局右保守係には代替要員の配置はなかった(このことから、右保守係は補助参加人を配属させるために新設したものであることが窺える。)。

(五)  支部組合は原告を相手として被告に対し、前記のとおり各不当労働行為救済申立をし、昭和四七年九月一九日当時には被告に不当労働行為救済申立事件が三件係属していたものであるが、同日、被告において支部組合及び全金愛知地方本部と原告の間で、補助参加人の前記(四)記載の配置転換命令を取消すことなどを内容とする和解が成立し、右各不当労働行為救済申立事件はいずれも取り下げられた。右和解において、原告と支部組合は、補助参加人の復職に当たっては同人の職務上の地位及び職務の内容について改めて協議を行い、相互の了解のもとに決定することが定められた。

これに基づいて、原告は、同年一〇月上旬、生産技術課と研究開発室を併せて技術グループとし、補助参加人を右技術グループに配転した。技術グループは、山田俊郎技師長(元社長)の元に統轄され、当初一〇人弱の従業員が所属し、概ねかつて技術部が担当していた業務を引き継いで所掌しており、補助参加人も他の技術グループ構成員とともに机をならべて職務に従事していた。

(六)  ところが、原告は、同年一一月一七日、山田技師長の退職に伴い補助参加人を含め当時技術グループに所属していた六名の従業員に対し、木村靖製造部長付とする旨の配置転換を命じた。右配転命令について、補助参加人以外の技術グループ構成員はこれに応じたが、補助参加人は原告から事前にその趣旨の説明を受けていなかったため、補助参加人及び支部組合は原告の措置に不信の念を抱き、翌一八日、団体交渉を開催し、原告の加藤正一社長との間で、右配転命令についてはひとまず保留とし、今後具体的な配転ルールを確立する旨の確認がされた。

(七)  右確認に基づき補助参加人に対する新たな配転命令はされなかったが、同年一二月、山田技師長が退職したことにより、技術グループは事実上木村製造部長の業務指示を受けるようになった。このことから、技術グループにおいては従前開催されていた技術グループ会議が開かれなくなり技術グループ構成員は技術グループ室に寄り付かずにそれぞれ現場に常駐するようになり、技術グループとしてのまとまりがなくなってきた。

(八)  同月、木村製造部長も原告を退職したため、昭和四八年一月、製造部長職が空席のまま野田稔が製造部長代理に就任して製造部の統轄者となり、事実上技術グループも指揮するようになった。なお、同人は、昭和五〇年一月、製造部長に昇格している。

野田製造部長代理は、昭和四八年春ころ、補助参加人に対し、アディティブプロセスの研究開発を命じた。アディティブプロセスとは、プリント配線基板製造の技術の一つで、従来のサブトラクティブプロセスが絶縁基板に銅箔を貼り付け、回路部分以外を取り除く方法であるのに対し、直接回路部分だけを無電解銅メッキで構成する方法であり、当時はまだ実験段階の技術であり、国内における実用例はなかったものであるため、補助参加人は野田製造部長代理に対し、その旨説明して補助参加人一人では開発は不可能で非現実的である旨進言したが、野田製造部長代理はこれを聞き入れず、とにかく研究するよう命じた。

補助参加人は、そのためアディティブプロセスの研究に取り組み、その後約一年間実験等を重ね、その間試作品のサンプルを付して中間報告をしたが、野田製造部長代理はこれについて何らのコメントをすることもなく、研究開発の期限、規模、方法等について全く指示を与えなかった。そこで、補助参加人は、昭和四九年春、それまでの研究の結果を踏まえてこれ以上研究を継続してもアディティブプロセスの開発は無理である旨の簡単な報告書を野田製造部長代理に提出し、同人はこれを上司である守田工場長に伝えたところ、同工場長は即座に研究開発の打ち切りを決定した。

(九)  原告は、昭和四九年五月、製造部に生産管理課を新設し、従来技術グループが担当していた業務のうち、新技術の検討、導入及び公害防止業務を除いた製品の品質管理、検査、工程の技術上の管理、改良等の業務を所掌させた。これに伴い技術グループには退職者等についての新たな人員の補充がなくなり、昭和四九年ないし五〇年ころには、技術グループに所属するのは、補助参加人及び公害防止業務を担当する河合清二(支部組合員)の二名のみになり、河合は業務の性質上殆ど屋外の施設で作業するため、補助参加人は技術グループ室で一人で勤務するようになった。他方、生産管理課(後に管理課となる。)は、当初は現場の技術者のみから構成されていたが、後に新たに採用された技術系大学卒業者を補充して人員、能力を整え、技術グループを凌駕して原告における技術の中核的地位を占めるようになった。

(一〇)  野田製造部長代理は補助参加人に対し、アディティブプロセスの研究開発打切り後暫くは全く業務指示をしなかったが、昭和四九年八月、補助参加人に対し、英語の技術文献の翻訳を命じた。補助参加人は野田製造部長代理に対し、業務内容が翻訳になるのか否か尋ねたところ、同人はこれに対し明確に返答しなかったが、その後、断続的に補助参加人に対し技術文献の翻訳を命じるようになり、昭和五七年八月に上司が守田工場長に代わるなど上司の交代はあったものの、補助参加人が断続的に翻訳業務を命じられるという状態は現在に至るまで継続し、翻訳業務の命じられない期間は後記廃水処理業務の応援を命じられた以外、補助参加人から再三にわたる要求にもかかわらず、全く仕事の指示がなかった。とりわけ、昭和五七年末から昭和六二年四月までの間、補助参加人は原告から全く業務の指示がなく、仕事が与えられなかった。

また、補助参加人が翻訳業務に従事していた部屋は、元の技術グループ室で約一六〇平方メートルの大部屋であり、補助参加人はここに一人でおり、人の出入りは殆どなく、昼の休憩時間を除いては他の従業員と話をする機会が与えられず、補助参加人が勤務時間中に右部屋を出ると無断職場離脱であるとして賃金を減額されることがあった。なお補助参加人は、昭和六一年七月、勤務場所が右大部屋から旧ロッカールームに移されたが、一人隔離されている状況は変わらなかった。

(一一)  補助参加人は、翻訳業務を指示された当初は、まず、翻訳の下書きを作成して野田製造部長代理(昭和五〇年一月からは製造部長、以下「製造部長」という。)に提出し、同人はこれに目を通したうえ押印して補助参加人に返却し、補助参加人はその後右下書きを清書するという手順を踏んでおり、野田製造部長は補助参加人の右下書きについて何ら翻訳や欠点の指摘をすることがなかったため、翻訳について普通以上の評価を受けているものと思っていたところ、その年の考課査定において原告が社内で最低であることを知り、その理由としては、他の業務に従事していないことから補助参加人の翻訳が低く評価されたものと考え、野田製造部長に対し、翻訳の下書きについて誤訳や表現の不適切な点について添削するよう要求したところ、同部長は、右要求には答えず、下書きの清書をするよう指示したため、添削が先であると主張する補助参加人との間で論争が繰り返し行われるようになり、補助参加人が提出した下書きはそのまま清書されることなく原文とともに野田製造部長の手元で保管されることになった。

補助参加人は、主に野田製造部長に対し、前記翻訳業務の指示のない期間には仕事を与えてほしい旨、翻訳の下書きを提出するにあたっては添削を要求する旨、さらに、補助参加人の考課査定が社内最低である理由の説明を求める旨再三にわたり口頭及び書面で申し入れたが、これらの要求は殆ど無視されるに至ったため、昭和五一年一〇月及び同年一二月に、原告に提出する書面に野田製造部長や加藤社長を犯罪者呼ばわりするなど侮辱、中傷するような記述をしたり、同人らを「君」づけないし敬称をつけないで呼んだり、野田製造部長に執拗に議論を挑んだりするに及んだ。

また、野田製造部長は補助参加人に翻訳を指示するに際し一般に期限を示さず、翻訳業務の必要性について説明を求められてもこれに答えず、昭和五五年八月ころには、既に指示により翻訳の済んでいた技術文献四冊につき重複して翻訳の指示をしたこともあった(なお、原告は翻訳業務の空白期間は、原告が業務指示をしなかったのではなく、下書きを清書する旨の業務命令を出していたにもかかわらず、補助参加人がこれに従わなかっただけである旨主張するが、前記認定のように翻訳文献及び下書きは野田製造部長が手元に保管し、補助参加人の手元にはなかったのであり、このことは右四冊の技術文献についても同様であるから、原告の右主張は採用できない。)。

(一二)  補助参加人の賃上げ及び夏季・年末一時金における考課査定は、支部組合結成前は社内でも上位であったが、支部組合結成後は一貫して社内最低であった。

5  補助参加人の支部組合における地位

補助参加人は、昭和四五年五月原告の従業員組合の執行委員長に選出され、同年七月支部組合が結成されると同時にその執行委員長に就任して、昭和四七年八月まで在任し、同月から昭和五一年八月まで書記長、同月から昭和五二年八月まで副委員長、同月から昭和五三年八月まで会計、同月から昭和五六年九月まで会計監査、同月から昭和五八年一〇月まで副委員長、同月から書記長などと支部組合の役職を歴任してきた。補助参加人が会計監査に就いていた昭和五三年八月から昭和五六年九月までの間に、支部組合と原告との間で九回の団体交渉と四回の事務折衝が行われたが、補助参加人はいずれにも参加していないが、その前後の期間は団体交渉に殆ど参加し、昭和五七年四月から昭和六〇年四月までの間に九回開かれた団体交渉のうち七回出席している。支部組合の組合員数は、昭和五〇年ころには一〇人位にまで減少し、昭和五六年ころ以降は六人となっており、各組合員が役職に就き、一人一人が重要な役割を担っている。殊に、補助参加人は、昭和五五年四月二六日、不利益取扱排除をめぐる不当労働行為救済申立事件を提起し、その後、昭和五八年四月一六日及び昭和六〇年四月二五日にもそれぞれ被告に対し、原告を相手方として本件救済申立事件を提起し、被告において争っている。右各救済申立事件の申立人が補助参加人個人となったのは、支部組合と対立関係にあったからではなく、本来支部組合として取り組むべきものであったが、支部組合としては少人数であることもあって、余力がなかったことから、補助参加人が個人で提起したものであり、支部組合にとっても当時の主要な組合活動の一つとなっていた。

三  原告の補助参加人に対する取扱について

1  前記二認定の事実によれば、原告の補助参加人に対する取扱は次のようなものであった。

補助参加人は、昭和四九年八月ころから英語の技術文献の翻訳を断続的に命じられていてこれに従事した他、時々公害防止業務の応援を命じられて乾燥汚泥(スラッジ)を産業廃棄物処理業者に引き渡す業務に従事しただけであり、普段はかつて技術グループが約一〇名程度で使用していた約一六〇平方メートルの大部屋で一人で翻訳業務に従事し、また、翻訳業務の指示もしばしば途絶えたため、その間は右大部屋で孤独に堪えながら無為にすごすことを余儀なくされたものである。そして、右状態は、昭和六一年七月に勤務場所が右大部屋から旧ロッカールームに移されたが一人隔離されている状況には変化がなく、上司である野田製造部長ないし守田工場長を初めとして他の従業員は補助参加人の勤務する部屋には殆ど立ち入ることがなく、補助参加人が部屋の外へ出ると無断職場離脱であるとして賃金が減額された程であった。

補助参加人が右のような職場環境に置かれていること自体異常なものといわざるを得ないが、さらに、前記二の認定によれば、上司の野田製造部長は補助参加人に対し、与えた翻訳業務の意義について説明することなく、翻訳の指示のない期間が相当長期にわたり、かつ、翻訳の指示をする際も期限を明示せず、既に翻訳済みの文献を重ねて翻訳するよう命じたりしている。原告は、先端産業を業務の内容とすることから外国文献の翻訳を欠くことはできず、守田工場長らは自ら翻訳による調査研究をしてきたが、その労を幾分も軽減するために補助参加人に翻訳をさせてきたものである旨主張するが、右事実に照らすと、原告が補助参加人に対し命じた技術文献の翻訳については、その必要性について多大の疑問があり、補助参加人をかかる長期間にわたり翻訳業務に専従させておく必要性ないし合理的理由を認めることができない。

2  他方、前記二の認定によれば、原告は、支部組合結成直後から支部組合を嫌悪し、これに反対する同志グループの活動を支援し、第二組合である日本サーキット労組の結成にも関与し、支部組合結成以来の同組合の中核的活動家である補助参加人に対しては、当初は組合活動から手を引くよう働きかけ、これが効を奏さないと見るや、前記二の4記載のとおり補助参加人に対し、同人ないし支部組合の不利益となるような不当な処遇を継続したものであり、とりわけ右の処遇のうち研究開発室への配置転換は、補助参加人を一人だけのスペースに隔離して何も業務指示を与えなかったというものであり、後の大部屋における翻訳業務に極めて類似しているものである。右研究開発室への配転は、被告における和解協定により昭和四七年一〇月に補助参加人を技術グループに配属させることにより一旦は是正されたが、その一、二年後に補助参加人は再び一人だけ隔離された環境で勤務するようになった。もっとも、右勤務環境の変化は、形式的には補助参加人は技術グループに在籍したままであって、原告が補助参加人に対し新たな配置転換命令を発したことはなく、他の技術グループ員が退職したことによる結果にすぎないものであるが、原告は技術グループ員の退職により欠員が生じてもこれを補充することなく、その一方で新たに生産管理課(後に管理課)を設けて、従来技術グループが担当していた業務のうち研究開発(翻訳を含む。)及び公害防止業務を除いたその余の業務を所掌させ、技術系大学卒業者を採用したうえこれに配属して内容の充実を図ったものであり、この経緯に照らせば、補助参加人は名称としては技術グループに残ったものの実質的には原告はその機構自体を改革することにより配置転換したのと同様の結果を招来せしめたものということができる。

なお、原告、本件考課査定期間中の補助参加人の支部組合と原告との団体交渉の出席回数及び発言状況などから補助参加人が支部組合の中核的活動家であることを争い、また、原告が補助参加人について支部組合の中核的活動家であるとの認識を有していなかったとして、原告に対する取扱と原告の組合活動との間に関連性がない旨主張するが、補助参加人の大部屋における翻訳業務等は右期間のはるか以前から継続しているのであり、右期間のみをとらえて補助参加人の支部組合における活動を論じるのは適当でなく、支部組合結成時からの補助参加人の活動を評価すべきであるし、また、右期間中においても構成員が、六、七名という支部組合の規模、補助参加人は豊田地区労働共闘会議の活動、春闘時の教宣活動など支部組合において中心的に活動していること及び本件救済申立事件を初め被告において原告を相手に争っていたことなどを勘案すると、補助参加人は依然として支部組合の中核的活動家であるというべきであり、原告もその旨の認識を有していたものと認められる。

3  以上を総合すれば、原告は補助参加人に対し、補助参加人を一人だけ隔離して勤務させ、さほど必要性の認められない翻訳業務に断続的に従事させ、その余の期間は無為にすごすことを余儀なくさせるという取扱を長期間にわたり継続してきたものであることが認められるのであり、このような補助参加人に対する処遇は、極めて不自然かつ異常なものであって、補助参加人に精神的苦痛を与えたばかりでなく、他の従業員から孤立させられたことにより支部組合の中核的活動家である補助参加人が組合活動をするについても重大な支障が生じたことが認められる。そして、以上の事実に照らすと、原告の右取扱は、補助参加人が支部組合における中核的活動家であることを原告において嫌悪したことに起因するものと指摘される。

4  したがって、支部組合結成以来社内最低である補助参加人の考課査定もまた右取扱と密接に結びついているものということができ、右考課査定を合理的ならしめる特段の事情のない限り、同様に原告の不当労働行為意思に起因するものと認めるのが相当である。

四  本件考課査定について

1  そこで、本件考課査定の合理性の有無について検討する。

<証拠>を総合すれば次の事実を認めることができ、山本及び守田の各供述のうちこの認定に反する部分は採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(一)  原告における人事考課制度

(1) 原告においては、人事考課の結果に基づき従業員の賃上げ額並びに夏季及び年末各一時金の支給額を決定するものであり、考課査定対象期間は、昭和五七年度賃上げについては昭和五六年三月二一日から昭和五七年三月二〇日まで、昭和五七年度夏季一時金については昭和五六年九月二一日から昭和五七年三月二〇日まで、昭和五七年度年末一時金については同年三月二一日から同年九月二〇日まで、昭和五九年度賃上げについては昭和五八年三月二〇日から昭和五九年三月三一日(昭和五九年三月から給与締切日が毎月二〇日から末日に変更されたことに伴う。)とそれぞれ定められていた。

(2) 一般従業員に対する考課査定の項目は、積極、責任感、正確、勤勉及び協力の五項目で、評価の内容は次のとおりであった。

ア 積極 やるべき仕事は上司の指示がなくとも進んで行ったか。創造性の有無。

イ 責任感 仕事を中途半端にせず、最後まで遂げたか。

ウ 正確 与えられた仕事を正確に速く行えているか。

エ 勤勉 仕事熱心であったか。

オ 協力 上司の指示命令に快く、援助協力したか。貢献度十分であるか。

そして、各項目について評定段階(一〇、九非常に良い、八、七かなり良い、六、五普通、四、三やや不良、二、一不良)に従って一点から一〇点までの一〇点満点で評定する五項目一〇点法(合計五〇点満点)で査定が行われる。

なお、昭和五七年度夏季一時金のための考課査定については、当該考課のための部課長会議において同年度の賃上げのための考課と全く一致するとの結論になったため、独自に考課を実施することなく、賃上げのための考課点がそのまま援用された。

(3) 考課は第一次から第三次まで行われ、第一次考課は直属の課長、第二次考課は部長、第三次考課は人事課長がそれぞれ行う。第一次考課は予め人事課で選定した標準者(各考課項目が一〇点満点中六点位になると思われる者)を基準として各項目ごとに課員の考課査定を行い、第二次考課は部に属する各課間のばらつきを調整、第三次考課は各部間の調整を目的とするものであるが、第一次考課が修正されることは希であった。なお、技術グループや資財課のように構成員の少ない場所においては独自に標準者を定めることができないため、他課の標準者を基準に考課されている。

(4) このようにして評定された評定点は、各考課の際に定められた数段階の考課率に置き換えられ、これに基づき実際の賃上げ額ないし一時金支給額が決定される。昭和五七年度賃上げ及び各一時金並びに昭和五九年度賃上げの各考課における考課率は別紙命令書(写)の別紙2記載のとおりであった。賃上げ及び各一時金の算出の計算式は次のとおりである。

ア 賃上げ

前年度の基本給×平均昇給率×出勤率×考課率=当年度の賃上げ額

イ 夏季及び年末各一時金

当年度の基本給×平均支給月数×出勤率×考課率=支給額

なお、出勤率は考課期間中の出勤日数を同期間中の全労働日数で除した商である。

(二)  補助参加人の考課査定

(1) 本件考課査定期間中の補助参加人の考課点及び考課率は別表一のとおりであり、いずれも原告の従業員中最低であった。

また、一般従業員(班長補佐以上を除く。)の平均考課点、平均考課率及び考課率分布状況を、支部組合、サーキット労組、非組合員別に見ると別表二ないし七記載のとおりである。

(2) 本件考課査定期間中の補助参加人の直属長は昭和五七年八月までは野田製造部長、同年九月以降は守田工場長であったことから、第一次考課は省略して昭和五七年度賃上げについて野田製造部長が第二次考課を実施し、同年度年末一時金及び昭和五九年度賃上げについての考課査定は守田工場長が行った。補助参加人についても標準者が一応定められていたが、業務内容が異なることから具体的に補助参加人と標準者を比較することはできなかった。守田工場長は、前記考課五項目を評定するにあたり、積極につき自分で翻訳文献を捜さないこと、責任感につき最後まで翻訳をやり遂げないこと、正確につき原文に忠実に翻訳しないこと、勤勉につき熱心に仕事をしないこと、協力につき上司に協力しないことなどを理由として不良ないしやや不良という評定をしたが、各項目間及び従前の考課点との点数の差異は大した意味がないとの認識を有していた。なお、野田製造部長は英語を解さないところから補助参加人の翻訳の正確性について評価する能力はなかった。

(3) 補助参加人の翻訳等業務及び野田製造部長との応対の状況は前記二の4のとおりであり、とりわけ本件考課査定期間中及びその前後の翻訳業務の状況は別紙命令書の別紙1記載のとおりであり、上司が守田工場長に変更された後、守田工場長は補助参加人に対し、翻訳業務の指示につき、野田製造部長から引継のあった二、三件の技術文献を交付しただけで、昭和五七年一二月ころ以降本件考課査定期間中全く業務指示をせず、補助参加人の業務する部屋へ行くこともなく放置した。また、本件考課査定期間中の補助参加人の出勤率は一・〇であり、極めて良好であった。

(4) 補助参加人は、自己の考課査定が原告の従業員中最低であると知り、上司である野田製造部長や人事課の担当者にその理由の説明及び考課査定の評定点等の具体的内容を明らかにするよう求めたところ、原告においては右事項は本人からの要求があればこれを告知する取扱となっているのにもかかわらず、補助参加人の右要求についてはまともに対応せず、これを黙殺ないし無視することが多かった。

(5) そこで、補助参加人は原告側の右対応に対して不満を抱き、繰り返し説明を求め、さらに、野田製造部長に提出する翻訳文の下書の冒頭その他原告に提出すべき書類に右不満を自己の業務に対する不満と併せ記載したり、翻訳文の記載方法に不真面目な点が見られたり、さらには、野田製造部長らに執拗に議論を仕掛け、同部長や社長などに対し敬称を付けないで応対した。

2  原告は、本件考課査定が低いのは補助参加人の勤務成績が劣悪であるからであり、本件考課査定は合理性を有する旨主張するので、以上の認定事実及び前記二の事実に基づき本件考課査定の合理性の有無について検討する。

本件考課査定期間中において、補助参加人は前記1の(二)の(5)及び前記二の記載のとおり、野田製造部長ら上司に対し反抗的な態度に終始し、かつ、翻訳文の下書きを清書するよう命じてもこれに従わなかった。しかしながら、補助参加人が前記のような反抗的態度に終始しているのは、原告の補助参加人に対する不当な処遇ないし対応に起因する部分が多分に存することが認められるのであり、この点について補助参加人のみを責めることは相当でない。なお、補助参加人が上司を犯罪者呼ばわりするなど侮辱、中傷する記述をしたのは本件考課査定期間前のことであり、右期間中にかかる記述をしたことを認めるに足りる証拠はない。また、翻訳文の下書きの清書命令に従わなかったことについては、前記二の判示のとおり補助参加人が当初清書をしていた時期から同人の考課査定は最低であったものであり、他に低い考課査定の理由が思いつかない補助参加人が添削を要求するのも理由があること、そもそも翻訳業務の必要性に疑問があることなどを考慮するとこれをもって考課査定を最低にするのは相当でないものというべきである。また、昭和五七年一二月ころ以降は、そもそも翻訳業務を与えていないから、この期間について清書命令に従わなかったことは考課査定を最低にする理由にはならない。

なお、原告は、補助参加人が本件考課査定期間中において翻訳業務に従事していなかった期間は、原告の翻訳文を清書すべき業務命令に背き稼動しなかったものである旨主張するが、前記二の認定のとおり右期間中、原告は補助参加人に対し何ら業務命令を出さずに無為にすごすことを強いていたものである。

以上の検討によれば、本件考課査定において補助参加人を原告従業員中最低にしたことについて実質的根拠があったものとは到底認められず、本件考課査定の合理性は認められない。

3  よって、補助参加人には、本件考課査定を合理的ならしめる特段の事情は認められないから、原告が補助参加人に対し本件考課査定をしたのは補助参加人が支部組合の中核的活動家であることを原告が嫌悪したことに起因するものと認めるのが相当である。

ところで、本件考課査定において、一般従業員では、補助参加人を除いた支部組合の平均考課点及び平均考課率が、サーキット労組及び非組合員の平均考課点及び平均考課率をいずれも上回っており、原告は右事実をもって支部組合を嫌悪し、差別していることはない旨主張するが、補助参加人の供述及び山本の供述によれば支部組合は本件考課査定当時一般従業員のみで構成されていたところ、サーキット労組及び非組合員には班長補佐以上の管理監督者が約六〇名おり、これらは一般従業員より原則として考課点が高いこと、支部組合員と同期入社のサーキット労組員及び非組合員は殆ど班長補佐以上に昇格していることが認められるから、前記事実をもって原告が支部組合の活動を嫌悪せず、支部組合全体を差別していないと断定することはできないし、また、前記二、三の判示にかかる支部組合結成以来の原告の同組合に対する一連の対応を見れば、原告の同組合に対する攻撃は、補助参加人に対し特に顕著に現われていることが窺えるから、補助参加人に対する考課点及び考課率の異常な低さを考慮せずに、平均考課点及び平均考課率(殊に補助参加人を除いたその余の支部組合員の平均考課点及び平均考課率)を比較対照してもさほど意味があるとはいえず、本件考課査定の不当労働行為性を否定する理由とはならない。

4  以上によれば、原告の補助参加人に対する本件考課査定はいずれも労働組合法七条一号所定の不利益取扱に該当するものであり、不当労働行為が成立するというべきである。

よって、これと同旨の本件命令に違法性はない。

五  以上の次第によれば、本件命令には原告主張のような違法性はなく、従って原告の請求は理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用及び参加によって生じた費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九四条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 清水信之 裁判官 根本 渉 裁判官 出口尚明は退官のため署名捺印することができない。裁判長裁判官 清水信之)

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